Jazzの歴史 |
1900年以前 |
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アフリカ系アメリカ人の音楽と西洋音楽の技術理論が融合し発祥。アフリカ系アメリカ人とはアフリカからの移民、その多くは奴隷として連れてこられた人々で、過酷な生活・重労働を強いられワークソングや霊歌として歌われていたものが、西洋の楽器で表現されるようになった。その自由な表現形式は、現代の音楽の様々な音楽ジャンルの源流となっていく。また、ジャズの発展は人種の壁を越える重要な役割となる。
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1890年代 |
ラグタイムもジャズの素地となるもので、ジャズのシンコペーションを生み出すことに繋がる。他にも賛美歌、民謡、黒人霊歌、ワークソング、ゴスペル、ブルースがジャズの礎となっている。(※rag:ラグはでデコボコ、不揃いなという意味) |
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即興演奏を始めてやりだした人はバディ・ボールデン(Charles "Buddy" Bolden,1977-1931)。 |
1897年 |
ニューオリンズに娼婦街がオープン。ここでジャズが演奏されることが多くジャズが栄えていくこととなる。 |
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《ジャズの語源について》
ニューオリンズの娼婦街でジャズが演奏されることが多く、この当時スラングで売春宿を"Jass House"、性行為や女性性器を"Jass"と言っていたことから、演奏者を"Jass
Band"と呼んでいたことが"Jazz"の語源となったという説がある。またフランス語の"Jaser"(くだらない話)が語源となった説もある。ちなみに当時ジャズは"Jass
Music"と呼ばれていた。後にジャズがシカゴへ伝わるとニューオリンズのジャズと区別するために"Jaz,Jasz,Jazz"と変化したと言われている。 |
1900年代 |
1902年 |
ブルースの父W.C.ハンディがサックスのカルテットを編成、サックスが使われる事は斬新だった。 |
1906年頃 |
世界最初のジャズのレコーディングを断ったフレディ・ケッパードは、ストーリーヴィルで演奏していた。後にバンドを編成し、ロサンジェルスに移りニューオリンズ・ジャズを広め、そのバンドは後にオリジナル・クレオール・オーケストラ"Original
Creole Orchestra"と呼ばれるようになる。 |
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ニューオリンズジャズが栄える。 |
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《サックスについて》
サックス(Saxophone)は1846年、ベルギー人のアドルフ・サックスが考案。シカゴとニューヨークのジャズ・バンドがサックスをバンドに取り入れるまでは、主に軍楽隊で使用されていた。 |
1910年代 |
1917年 |
2月26日初めてのジャズレコードが発売される。ニューオーリンズ出身の白人バンドのオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド"Original
Dixieland Jass Band"が、ジャズでは初の商業用レコードとして、"Dixie Jass Band One
Step"と"Livery Stable Blues"の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンより発表、世界中でヒットしミリオンセラーとなる。 |
1917年 |
公娼制度廃止とともにストーリーヴィルはさびれることにとなり、行き場を失った多くのミュージシャンがシカゴに移って行き、ジャズはシカゴで栄えることとなる。 |
1910年代終り |
ニューヨークでも、ラグタイムとブルースが混ざったストライド奏法が誕生しジャズが芽生えていた。 |
1919年 |
キッド・オリー(Kid Ory)が"Original Creole Jazz Band"というバンドをサンフランシスコで結成。 |
1920年代 |
1920年代 |
この時代はアル・カポネが闊歩した時代で、娼婦やギャングによってアメリカの禁酒法時代に地下化した酒場などで聴かれていたが、次第に多くの人に浸透していき、シカゴでジャズが栄えた。また、レコードやラジオの普及によって音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まるのがこの時代で、第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカ隆盛期は「ジャズ・エイジ」と呼ばれた。 |
1922年 |
キッド・オリーは"Spike's Seven Pods of Pepper Orchestra" というバンド名で、黒人バンド初めてのジャズ・レコードを出す。その時の曲は、"Ory's
Creole Trombone"と"Society Blues"。
ハーレムにコットン・クラブという有名な高級クラブができ、白人が黒人の音楽を聴く事になる。
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「サックスの巨人」コールマン・ホーキンスがサックスをジャズに持ち込んだと言われている。
ニューヨークではビッグバンドスタイルを、フレッチャー・ヘンダーソンの楽団が確立し、そのメンバーにはルイ・アームストロングやコールマン・ホーキンスもいた。 |
1924年 |
ジョージ・ガーシュインがはじめてニューヨークでジャズ・コンサートを行う。ラプソディー・イン・ブルーが演奏され、ジャズが演奏会として行われたこと、クラッシック音楽にジャズが影響を与えた事は歴史的な事であった。 |
1927年 |
デューク・エリントンのバンドがコットンクラブの専属バンドとなる。
カウント・ベイシーがベニー・モートン楽団に入る。 |
1930年代 |
1930年代 |
ソロ演奏が以前より重要視されるようになり、ビッグバンドスタイルによるスイング・ジャズが確立されていく。スイング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視され、特にルイ・アームストロング、ジャズとヴォーカルの融合という重要な役割を果たした。 |
1935年 |
ベニー・モートンが亡くなり、ベニー・モートン楽団が、カウント・ベイシー楽団となる。 |
1937年 |
カウント・ベイシーもニューヨークに進出。既にジャズの中心はニューヨークへ移っていた。 |
1938年 |
1月16日、ベニー・グッドマン楽団によるカーネギー・ホールでのジャズコンサートが開かれる。クラッシックの殿堂でジャズが演奏されたことは、やはり歴史的な事であり、人種差別の強い時代に黒人の奏者がいたことも大きな意義のあることであった |
1939年 |
フランク・シナトラがハリー・ジェームス楽団の専属歌手としてデビュー。
ジャズの本が初めて出版される。ワイルダー・ホブソン(Wilder Hobson)の"American Jazz Music"とフレデリック・ラムゼィ&チャールズ・スミス(Frederick
Ramsey & Charles E. Smith)の"Jazzmen"。 |
1940年代 |
1941年 |
スイングから脱却したスタン・ケントン楽団ができ、"progressive"と呼ぶ進歩的なスタイルを取り、後の"Cool
Jazz"に繋がることになり、ビックバンドスタイルに変化が現れる。即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索される。 |
1943年 |
カーネギー・ホールにて、黒人バンドであるデューク・エリントン楽団がコンサートを開く。 |
1942年〜 |
1942年8月〜1943年秋にかけて、大規模なレコーディング・ストライキがある。 |
1944年 |
グレン・ミラーが飛行機事故で死亡、2年後にはスイング時代の終焉を迎える。 |
1940年代中盤 |
スイングは頂点に達したが、戦争による社会情勢の疲弊により、ビッグ・バンドから小編成バンド化が進み始める。 |
1940年代後半 |
チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・クリスチャンらがオフビートを始め、ビ・バップの兆しが見えてくる。
終戦前後からバップがジャズを牽引し、マイルス・デイビスが活躍する。マイルス・デイビスはルイ・アームストロングの後継者と言われ、新しいものに挑戦していくことで、バップ、クール、ハード・バップの変遷を経てフュージョンへと導くことになる。 |
1950年代 |
1950年代 |
クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。 |
1957年中盤 |
ソフトなフィーリングを嫌う、よりバップを強調したハード・バップ”Hard Bop”が出現。ハードバップではブルーノートを意識的に使わなくなる。
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1957年 |
フランス映画「大運河」でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックをジャズに委ねたのは、伝記映画を除き初めてのこととなる。マイルス・デイヴィスが「死刑台のエレベーター」、セロニアス・モンクが「危険な関係」、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが「殺られる」、ケニー・ドーハムが「彼奴を殺せ」に参加する"シネ・ジャズ"と呼ばれる動きが起こる。 |
1958年 |
アメリカ映画「私は死にたくない」にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになる。 |
1950年代終り |
マイルス・デイヴィスの「マイルストーンズ」「カインド・オブ・ブルー」といった作品では、モード・ジャズという手法が試みられる。即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンやセシル・テイラー等は、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し。 |
1960年代 |
1960年 |
レナード・フェザーの"The Encyclopedia of Jazz"はジャズ辞典として有名。 |
960年代前半 |
ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。 |
1961年 |
オーネット・コールマンのアルバム名からフリー・ジャズという言葉が広まることになる。 |
1962年 |
スタン・ゲッツは「ジャズ・サンバ」でビルボード誌のポップ・チャート1位を獲得。 |
1963年 |
ボサノヴァのジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等との共演盤「ゲッツ/ジルベルト」を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。 |
1964年 |
「ジャズの10月革命」(October Revolution)として、コンサート及びパネルディスカッションが、ニューヨークのセラー・カフェ(Cellar
Cafe)で4日間行われた。ジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンが提唱するフリージャズの理解を深めようとする目的で行われ、「Free
Jazz革命」となる。 |
1967年 |
ジョン・コルトレーンが41歳、肝臓ガンで亡くなる。 |
1960年代終り |
マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、「ビッチェズ・ブリュー」を大ヒットさせる。このヒットが多くのミュージシャンに影響し、エレクトリック楽器を使用したバンドが増えていき、フュージョン・スタイルへ発展することになる。 |
1970年代 |
1970年代 |
アメリカではエルビス・プレスリーが登場しロカビリー・ブームの到来。
ジャズはフュージョン(融合)の時代へと突入する。 |
1980年代 |
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1990年代 |
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2000年以降 |
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