音楽課外授業【JAZZY ROOM】
ジョージ・ハワード カーク・ウェイラム グローバー・ワシントン Jr. キャンディー・ダルファー ポール・ウィンター
高中 正義 ボブ・ジェームス ハープ・アルパート ナット・キング・コール サッチモ
Jazz&Fusion
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JAZZの歴史
Jazzの歴史
1900年以前   アフリカ系アメリカ人の音楽と西洋音楽の技術理論が融合し発祥。アフリカ系アメリカ人とはアフリカからの移民、その多くは奴隷として連れてこられた人々で、過酷な生活・重労働を強いられワークソングや霊歌として歌われていたものが、西洋の楽器で表現されるようになった。その自由な表現形式は、現代の音楽の様々な音楽ジャンルの源流となっていく。また、ジャズの発展は人種の壁を越える重要な役割となる。
1890年代 ラグタイムもジャズの素地となるもので、ジャズのシンコペーションを生み出すことに繋がる。他にも賛美歌、民謡、黒人霊歌、ワークソング、ゴスペル、ブルースがジャズの礎となっている。(※rag:ラグはでデコボコ、不揃いなという意味)
  即興演奏を始めてやりだした人はバディ・ボールデン(Charles "Buddy" Bolden,1977-1931)。
1897年 ニューオリンズに娼婦街がオープン。ここでジャズが演奏されることが多くジャズが栄えていくこととなる。
  《ジャズの語源について》
ニューオリンズの娼婦街でジャズが演奏されることが多く、この当時スラングで売春宿を"Jass House"、性行為や女性性器を"Jass"と言っていたことから、演奏者を"Jass Band"と呼んでいたことが"Jazz"の語源となったという説がある。またフランス語の"Jaser"(くだらない話)が語源となった説もある。ちなみに当時ジャズは"Jass Music"と呼ばれていた。後にジャズがシカゴへ伝わるとニューオリンズのジャズと区別するために"Jaz,Jasz,Jazz"と変化したと言われている。
1900年代 1902年 ブルースの父W.C.ハンディがサックスのカルテットを編成、サックスが使われる事は斬新だった。
1906年頃 世界最初のジャズのレコーディングを断ったフレディ・ケッパードは、ストーリーヴィルで演奏していた。後にバンドを編成し、ロサンジェルスに移りニューオリンズ・ジャズを広め、そのバンドは後にオリジナル・クレオール・オーケストラ"Original Creole Orchestra"と呼ばれるようになる。
  ニューオリンズジャズが栄える。
  《サックスについて》
サックス(Saxophone)は1846年、ベルギー人のアドルフ・サックスが考案。シカゴとニューヨークのジャズ・バンドがサックスをバンドに取り入れるまでは、主に軍楽隊で使用されていた。
1910年代 1917年 2月26日初めてのジャズレコードが発売される。ニューオーリンズ出身の白人バンドのオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド"Original Dixieland Jass Band"が、ジャズでは初の商業用レコードとして、"Dixie Jass Band One Step"と"Livery Stable Blues"の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンより発表、世界中でヒットしミリオンセラーとなる。
1917年 公娼制度廃止とともにストーリーヴィルはさびれることにとなり、行き場を失った多くのミュージシャンがシカゴに移って行き、ジャズはシカゴで栄えることとなる。
1910年代終り ニューヨークでも、ラグタイムとブルースが混ざったストライド奏法が誕生しジャズが芽生えていた。
1919年 キッド・オリー(Kid Ory)が"Original Creole Jazz Band"というバンドをサンフランシスコで結成。
1920年代 1920年代 この時代はアル・カポネが闊歩した時代で、娼婦やギャングによってアメリカの禁酒法時代に地下化した酒場などで聴かれていたが、次第に多くの人に浸透していき、シカゴでジャズが栄えた。また、レコードやラジオの普及によって音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まるのがこの時代で、第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカ隆盛期は「ジャズ・エイジ」と呼ばれた。
1922年 キッド・オリーは"Spike's Seven Pods of Pepper Orchestra" というバンド名で、黒人バンド初めてのジャズ・レコードを出す。その時の曲は、"Ory's Creole Trombone"と"Society Blues"。
ハーレムにコットン・クラブという有名な高級クラブができ、白人が黒人の音楽を聴く事になる。
  「サックスの巨人」コールマン・ホーキンスがサックスをジャズに持ち込んだと言われている。
ニューヨークではビッグバンドスタイルを、フレッチャー・ヘンダーソンの楽団が確立し、そのメンバーにはルイ・アームストロングやコールマン・ホーキンスもいた。
1924年 ジョージ・ガーシュインがはじめてニューヨークでジャズ・コンサートを行う。ラプソディー・イン・ブルーが演奏され、ジャズが演奏会として行われたこと、クラッシック音楽にジャズが影響を与えた事は歴史的な事であった。
1927年 デューク・エリントンのバンドがコットンクラブの専属バンドとなる。
カウント・ベイシーがベニー・モートン楽団に入る。
1930年代 1930年代 ソロ演奏が以前より重要視されるようになり、ビッグバンドスタイルによるスイング・ジャズが確立されていく。スイング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視され、特にルイ・アームストロング、ジャズとヴォーカルの融合という重要な役割を果たした。
1935年 ベニー・モートンが亡くなり、ベニー・モートン楽団が、カウント・ベイシー楽団となる。
1937年 カウント・ベイシーもニューヨークに進出。既にジャズの中心はニューヨークへ移っていた。
1938年 1月16日、ベニー・グッドマン楽団によるカーネギー・ホールでのジャズコンサートが開かれる。クラッシックの殿堂でジャズが演奏されたことは、やはり歴史的な事であり、人種差別の強い時代に黒人の奏者がいたことも大きな意義のあることであった
1939年 フランク・シナトラがハリー・ジェームス楽団の専属歌手としてデビュー。
ジャズの本が初めて出版される。ワイルダー・ホブソン(Wilder Hobson)の"American Jazz Music"とフレデリック・ラムゼィ&チャールズ・スミス(Frederick Ramsey & Charles E. Smith)の"Jazzmen"。
1940年代 1941年 スイングから脱却したスタン・ケントン楽団ができ、"progressive"と呼ぶ進歩的なスタイルを取り、後の"Cool Jazz"に繋がることになり、ビックバンドスタイルに変化が現れる。即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索される。
1943年 カーネギー・ホールにて、黒人バンドであるデューク・エリントン楽団がコンサートを開く。
1942年〜 1942年8月〜1943年秋にかけて、大規模なレコーディング・ストライキがある。
1944年 グレン・ミラーが飛行機事故で死亡、2年後にはスイング時代の終焉を迎える。
1940年代中盤 スイングは頂点に達したが、戦争による社会情勢の疲弊により、ビッグ・バンドから小編成バンド化が進み始める。
1940年代後半 チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・クリスチャンらがオフビートを始め、ビ・バップの兆しが見えてくる。
終戦前後からバップがジャズを牽引し、マイルス・デイビスが活躍する。マイルス・デイビスはルイ・アームストロングの後継者と言われ、新しいものに挑戦していくことで、バップ、クール、ハード・バップの変遷を経てフュージョンへと導くことになる。
1950年代 1950年代 クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。
1957年中盤

ソフトなフィーリングを嫌う、よりバップを強調したハード・バップ”Hard Bop”が出現。ハードバップではブルーノートを意識的に使わなくなる。

1957年 フランス映画「大運河」でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックをジャズに委ねたのは、伝記映画を除き初めてのこととなる。マイルス・デイヴィスが「死刑台のエレベーター」、セロニアス・モンクが「危険な関係」、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが「殺られる」、ケニー・ドーハムが「彼奴を殺せ」に参加する"シネ・ジャズ"と呼ばれる動きが起こる。
1958年 アメリカ映画「私は死にたくない」にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになる。
1950年代終り マイルス・デイヴィスの「マイルストーンズ」「カインド・オブ・ブルー」といった作品では、モード・ジャズという手法が試みられる。即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンやセシル・テイラー等は、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し。
1960年代 1960年 レナード・フェザーの"The Encyclopedia of Jazz"はジャズ辞典として有名。
960年代前半 ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。
1961年 オーネット・コールマンのアルバム名からフリー・ジャズという言葉が広まることになる。
1962年 スタン・ゲッツは「ジャズ・サンバ」でビルボード誌のポップ・チャート1位を獲得。
1963年 ボサノヴァのジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等との共演盤「ゲッツ/ジルベルト」を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
1964年 「ジャズの10月革命」(October Revolution)として、コンサート及びパネルディスカッションが、ニューヨークのセラー・カフェ(Cellar Cafe)で4日間行われた。ジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンが提唱するフリージャズの理解を深めようとする目的で行われ、「Free Jazz革命」となる。
1967年 ジョン・コルトレーンが41歳、肝臓ガンで亡くなる。
1960年代終り マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、「ビッチェズ・ブリュー」を大ヒットさせる。このヒットが多くのミュージシャンに影響し、エレクトリック楽器を使用したバンドが増えていき、フュージョン・スタイルへ発展することになる。
1970年代 1970年代 アメリカではエルビス・プレスリーが登場しロカビリー・ブームの到来。
ジャズはフュージョン(融合)の時代へと突入する。
1980年代    
1990年代    
2000年以降    
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ジャズの主なスタイル
ジャズのスタイル(ジャンル) 備考
ラグタイム 1890年代中頃から1920年代にかけて、アメリカで盛んに演奏されたポピュラー音楽の一種。ピアノを中心にしたアンサンブルで演奏されることが多い。特徴はシンコペーションを用いた演奏で、ジャズの初期には“ジャズ”の同意語として使われていた。
ニューオーリンズ・ジャズ 1900年頃〜1920年頃のニューオリンズでの黒人たちのジャズを総称してニューオリンズ・ジャズと呼ぶ。
ブラスの即興演奏で黒人の好むものと、クレオールの室内楽的な白人が好むものとがあった。
ダンスやパレード、また葬式等の際に小規模なブラス・バンド編成で演奏された。
コルネット、クラリネット、トロンボーンなど即興演奏を、アンサンブルで聴かせるのが特徴。
クレオール・ジャズ フランス人と黒人の混血をクレオール(Creole)と呼ぶ。クレオールは当時でも黒人とは区別され、奴隷制度にも関わらず、ニューオリンズでは白人並みの有産階級とされていた。奴隷制度廃止後は黒人とみなされ、奴隷制度廃止とともに人種差別を受けるようになったが、クレオールと黒人が「同じただの黒人」になって初めてジャズらしいジャズが事になった。もともとクレオールの音楽はヨーロッパ的なより洗練されたものだったためであった。
クレオールの旋律を"Creole Tune"、クレオールのジャズを"Creole Jazz"と呼ぶ。
ディキシーランド・ジャズ 白人たちも黒人のジャズをまねてトランペット・トロンボーン・クラリネットの3管編成を中心とするニューオリンズ・スタイルのジャズを始めたものが、これがディキシーランド・ジャズと呼ぶ。
一旦は流行らなくなるも、ディキシーランド・ジャズは1939年終り〜1940年に復活する。
ニューオリンズ(New Orleans)は、ニュー・オルレアンの意味で、フランス統治下であった。そのため中央銀行の10$札にはフランス語で"DIX"と印刷されおり、ニューオリンズはディキシーランド"Dixieland"と呼ばれた。
シカゴ・ジャズ ニューオリンズからシカゴに移ってきた黒人ミュージシャンの影響をうけて、1920年代からシカゴの白人ミュージシャンたちが演奏したジャズのことを指す。
シカゴでジャズは禁酒法施行(1920〜33)下の潜りの酒場で演奏されが、やがて多くのミュージシャンたちはニューヨークへと移動していった。。
スウィング・ジャズ ジャズ演奏のリズムを形容する言葉。はずむようなリズム、明るいサウンド、反復のフレーズが特徴とされています。社交ダンスと結びついて、ブームとなった1930年代には、ジャズそのものを示すようになりました。白人ミュージシャンが中心で、専属のボーカリストがポップな曲を歌いました。
カンザスシティ・ジャズ チャーリー・パーカーが生まれた町として知られる中西部の街カンサス・シティは、1930年代にカウント・ベイシーやジェイ・マクシャンなど多くのビック・バンドが活躍する。
特徴はリハーサル時に口頭でアレンジを指示したりするシンプルな“ヘッド・アレンジ”のリフをアンサンブルで執拗に繰返すところにあり、バンドが一丸となってスイングするところがこのスタイルの醍醐味。スイング全盛期、多くのバンドがこのスタイルを踏襲しました。
モダン・ジャズ ビバップ 1940年代の半ばから後半にかけて隆盛したジャズの新しいスタイル。バップとも呼ばれる。今日のモダン・ジャズのルーツで、跳躍するメロディ、より複雑なコード進行、オフ・ビートを重視したアクセントの強いリズムなどが特徴で、当初、伝統派からは非難されていた。1940年代の初頭から黒人の若手ミュージシャンが中心となって確立されていったが、1940年代後半には多くの白人ミュージシャンも演奏するようになる。
SKY.fm
,Modern Jazz アメリカ。96kbps
クール・ジャズ 1940年代の終わりに登場してきたスタイルで、ホットかつエキサイティングで超絶的な技巧を要求するビバップを別の角度から表現しようと試みました。サウンド・テキスチャーを重視したマイルス・デイビスの実験アルバム『クールの誕生』(1948年)は、その代表です。クールな感触と理知的なアレンジによるアンサンブル、エモーションを抑制したソロなどで、この試みに参加したジェリー・マリガンやリー・コニッツらは、やがてクールやウエスト・コースト・ジャズの立役者になりました。
ウエストコースト・ジャズ  1950年代中頃、ロサンゼルスなど西海岸で白人ミュージシャンを中心に演奏されたモダン・ジャズ。スタン・ケントンやウディ・ハーマン楽団などの出身者を中心に、洗練された演奏テクニックと緻密なアレンジ、カリフォルニアのドライで明るい風土が感じられる明快なサウンドで、独特のスタイルが生み出され、マリガンやチェット・ベイカー、アート・ペッパーら人気スターが輩出しました。
イーストコースト・ジャズ 西海岸のウエスト・コースト・ジャズに対応してできた呼び名で、1954年から数年間、ニューヨークで主に黒人グループが演奏したモダン・ジャズを指します。編曲を重視した西海岸派のジャズに対して親しみやすいテーマ・メロディと赤裸々にエモーションをたたきつけるエキサイティングな即興演奏が主体のスタイルで、ブルースやゴスペルの要素も採り入れて、ファンキー・ジャズともハード・バップとも呼ばれています。
ハード・バップ  
ファンキー・ジャズ  
ソウル・ジャズ  
モード・ジャズ(新主流派) 1950年代の中頃から理論家で作曲家のジョージ・ラッセルらによって追求されてきた即興演奏の手法のひとつ。マイルス・デイビスが『カインド・オブ・ブルー』(1958年)で実践し、スタイルを確立しました。従来からの複雑な和声進行から解放され、特定のモード(音階)を使って演奏でき、演奏者はより自由に創造性の発揮に集中できるということで1960年代に入って急激にジャズ界に広まりました。
新伝承派(1980年代台頭)  
ミレニアム(仮称:主に1990年以降)  
フリー・ジャズ  
シンフォニック・ジャズ  
ラテン・ジャズ アフロ・キューバン・ジャズ
ブラジリアン・ジャズ SKY.fm ,Bossa Nova Jazz アメリカ。96kbps
ボサノヴァ  
ジャズ・ファンク
(ファンキー・ジャズとは異なる)
 
ジャズ・ロック  
クロスオーヴァー  
フリージャズ

1960年代、現代音楽から影響を受けた前衛的な手法を取り入れたジャズ。コード進行、調性、リズム、アンサンブルの約束事など既成のジャズの概念に拘束されないスタイルが特徴です。非商業主義、反体制的なアプローチが基盤になっており、オーネット・コールマンのダブル・カルテットによるアルバム『フリー・ジャズ』(1960年)の登場で、広く知られるようになりました。セシル・テイラーやジョン・コルトレーンもこの分野での活躍で有名です。

フュージョン スムーズジャズ “フュージョン”には「融合」「溶解」といった意味があります。1960年代の末、ジャズにロック、ポップス、ソウル、クラシック、ワールド・ミュージックなどさまざまな音楽の要素を融合させる試みが盛んになりました。キーボード、エレクトリック・ベース、ギター・シンセなど先端的な電化楽器の導入を試みることで、ジャズは再び異種文化の結合という初期のルーツに先祖帰りをしたことになったのです
1.FM
アメリカ。128kbps
SmoothJazz.com アメリカ。128kbps
SKY.fm,Smooth Jazz アメリカ。96kbps
アシッド・ジャズ
(元来はジャズとみられない)
ニュージャズ
BlueNoteRadio - アメリカ。ジャズ名門レーベル直営。
代表的なアーティスト ジャズ・フュージョンミュージシャンの一覧を参照
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参考
著名なジャズクラブ等
クラブ 年代 場所 詳細
コットン・クラブ 1923〜1940 ニューヨーク ハーレム地区にあった名高い高級ナイトクラブ。
ヴィレッジ・ヴァンガード 1935〜 ニューヨーク グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、モダンジャズを牽引した名店。
ミントンズ・プレイハウス 1938〜1974 ニューヨーク テナーサックス奏者ヘンリー・ミントンが開店。ビバップの発祥の証しとなる「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」1941年でのセッションレコードで有名。2006年再開店。
カーネギー・ホール 1891〜 ニューヨーク マンハッタン地区にあるコンサートホール。1938年ベニー・グッドマンにより史上初のジャズ・コンサートが開催された。
バードランド 1949〜1965 ニューヨーク マンハッタン地区にあったビバップ・モダンジャズの黄金時代を牽引した名店。1986年再開店。
プリザベーション・ホール 1960年代〜 ニューオーリンズ ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体の名店。
ブルーノート 1981〜 ニューヨーク グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、世界各国にレストランをチェーン展開。ブルーノート・レコードとは無関係。
三大ジャズ・フェスティバル
ニューポート・ジャズ・フェスティバル 1954年よりアメリカ・ロードアイランド州・ニューポートにて。
1984年に日本ビクターがスポンサーに付いて以降のフェスティバル・プロダクション主催の同フェスティバルは JVC Jazz Festival Newport, R.I. が正式名称となる。また、世界の複数の都市で姉妹フェスティバルが催されている。
モントレー・ジャズフェスティバル アメリカ・カリフォルニア州・モントレーにて
モントルー・ジャズフェスティバル スイス・モントルーにて、毎年7月開催。
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ジャズに関わる映画
ジャズ・ブームを盛り上げた、もう一つの要因が音楽映画があります。昭和29年(1954年)1月に映画
「グレンミラー物語」、昭和31年(1956年)には「ベニーグッドマン物語」が公開され、スクリーンでハリー・ジェイムス、ジンクルーパー、ライオネル・ハンプトンなどの演奏を楽しむ事になり、本人も来日し、生でベー・グッドマン楽団の演奏を聴くことができました。
映画ではその後、エディー・デューチンの伝記映画「愛情物語」やレッド・ニコルスの半生を描いた「五つの銅貨」が公開されジャズ・フアンを楽しませました。
昭和32年(1957年)にはフランス映画がモダン・ジャズを映画音楽として使用し、多くのヌーベル・バーグ映画が評判になりました。ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」でマイルス・デビスが音楽を担当、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」でのジョン・ルイス作曲、モダン・ジャズ・カルテットの演奏、「殺られる」「危険な関係」のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーの演奏、そして、昭和36年(1961年)にはアートブレイキーとジャズ・メッセンジャーが来日し「モーニン」が大ヒットし「ファンキー・ブーム」となり、各地にモダン・ジャズを専門に聴かせる喫茶店が増え始めました。
ニューポート・ジャズ・フェスッティバルの記録映画「真夏の夜のジャズ」もヒットして第二次ジャズ・ブームを迎えました。
洋画 映画タイトル 製作 監督 主な出演者、その他
洋画 ジャズ・シンガー 1927 世界初のトーキー映画。
洋画 ニューオーリンズ 1947 アーサー・ルービン ルイ・アームストロングやビリー・ホリデイが脇役として出演
洋画 情熱の狂想曲 1950
洋画 グレン・ミラー物語 1953 アンソニー・マン ジェームズ・ステュアート
洋画 ベニー・グッドマン物語 1955 バレンタイン・デイビス テディ・ウィルソン、ライオネル・ハンプトン、ジーン・クルーパ、スタン・ゲッツ、ハリー・ジェームズ、ジギー・エルマン
洋画 上流社会 1956 チャールズ・ウォルターズ ビング・クロスビー、フランク・シナトラ、ルイ・アームストロング
洋画 五つの銅貨 1959 メルヴィル・シェイヴルソン ダニー・ケイ、ルイ・アームストロング、ボブ・クロスビー
レッド・ニコルズ(コルネット奏者)の半生を描く。
洋画 真夏の夜のジャズ 1960 記録映画
洋画 酒とバラの日々 1962
邦画 さらばモスクワ愚連隊 1968 堀川弘通 原作:五木寛之
洋画 ニューヨーク・ニューヨーク 1977
洋画 ラグタイム 1981
洋画 コットン・クラブ 1984
洋画 ラウンド・ミッドナイト 1986 ベルトラン・ダベルニエ デクスター・ゴードン
音楽:ハービー・ハンコック
洋画 ジャズメン 1984 ソ連製作
邦画 上海バンスキング 1984 深作欣二 原作:斉藤憐
邦画 ジャズ大名 1986 岡本喜八 原作:筒井康隆
邦画 キャバレー 1986 角川春樹 原作:栗本薫
洋画 バード 1988 クリント・イーストウッド
洋画 ストレート・ノー・チェイサー 1988 クリント・イーストウッド セロニアス・モンク
洋画 レッツ・ゲット・ロスト 1988 ブルース・ウェーバー チェット・ベイカー
邦画 上海バンスキング 1988 串田和美 原作:斉藤憐
洋画 ハーレム・ナイト 1989
洋画 モ'・ベター・ブルース 1990 スパイク・リー デンゼル・ワシントン、スパイク・リー
洋画 ディンゴ 1991 音楽を担当したマイルス・デイヴィス自身も俳優として出演
洋画 スウィング・キッズ
引き裂かれた青春
1993 ナチス政権下のハンブルグ市でスウィング・ジャズを愛する青年達の悲劇を描いている。
邦画 この世の外へ クラブ進駐軍 2004 阪本順治
邦画 スウィングガールズ 2004 矢口史靖 田舎のジャズブラスバンドの成長?を描いた青春映画。
邦画 大停電の夜に 2005 源孝志
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Fusion

1960年代半ばにキャノンボール・アダレイがジャズとポップを融合させた音楽を演奏し始める。'60年代後半になるとマイルス・デイヴィスやトニー・ウィリアムスのライフタイムがエレクトリック・ギターやベース・ギター、エレクトリック・ピアノといった電気楽器を用いてロックをジャズに取り入れ演奏し始める。後にハービー・ハンコックやジョー・ザヴィヌル、ヤン・ハマー、チック・コリア等がモーグ・シンセサイザーを取り入れ始める。トランペッターのマイルス・デイヴィスがIn a Silent Way (1969)とBitches Brew (1970)を発表し、フュージョンの雛形を作る。

1960年代の後半より、電気楽器やロック風な奏法を取り入れた、新しい演奏スタイルジャズ・ロック、クラシックや現代音楽の要素を取り入れたクロスオーバーを経て、アメリカなどでは1970年代終盤、日本でも同時期から1980年代に入ると、よりソフィスティケイトされたポピュラーな曲想や演奏となった。これを、他のジャンルと融合した音楽としてフュージョンという新たなジャンルで呼ばれた。1990年代より現在ではよりポップ性を持たせ、大衆により聞きやすくなったスムーズジャズがアメリカのラジオ局を中心に人気になっている。


アメリカのビルボードにおいてはフュージョンはコンテンポラリー・ジャズと分類されており、このコンテンポラリー(同世代の)の意味合いは、「現時点における音楽の手法を用いたもの」と考えた方がいいだろう。ここで混合されやすいのはモダン・ジャズとの違いである。モダンジャズのモダン(現代の)とは、ビ・バップ以降のストレート・アヘッド・タイプのジャズを示す言葉であると考えた方がいいだろう。
「16ビート」がその代名詞ともなっていき、後には、このジャズやロックなどがミックスされた音楽であるフュージョンの要素が、「8ビート」中心のロックなどにも、逆に取り込まれるようになる。そのことからも、現在の視点から判断すると、単なるミックスされた音楽というよりも、前述した「新たな独立した音楽ジャンル」という表現の方が相応しい。

このような楽曲的性格から、BGMとしても馴染みの良い音楽に仕上がっているため、番組専用の音楽が作られていないテレビ・ラジオ番組において、あらゆる場面であらゆるアーティストの楽曲がテーマ曲やBGMとして多用されているほか、中には番組テーマ曲として使用されることを前提として作られた曲も存在する。
また、売れる音楽ということで、ジャズミュージシャン側からこの音楽を演奏する状態も多かったが、日本でのブームの際には、多数のジャズ系ミュージシャン、それより少数派のロック系ミュージシャンの他、後に、独自のフュージョン系ミュージシャンも登場した。そのことからも、現在は、「伝統的なジャズの流れや進歩の系譜として扱うには、やや疑問」という見解と、逆にここから、現在のジャズの最先端ともいうべき、ポップ化への動きが盛んになったとの見方もあり、そういった「現在のコンテンポラリー・ジャズへ至る、あらゆる意味での大元である」との見解とに別れている。

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